ポエムみたいなブログが懐かしい
いまなら黒歴史とか呼ばれるような記事
心の中のクネクネした悩みをそのまま書き殴ったような記事
本人以外に誰が読んでも特にならないような記事
そういう独白にもならないような理屈こねみたいな記事をたまに読みたくなる
が、最近はあまりそういうのを見かけない気がする
誰かのためじゃなくて自分のために書いて、他人が見ればやりかけの仕事が乱雑に散らばっているような記事
そういう記事を書くことへのハードルが上がったのだろうか
ちゃんとした記事、調査を経た上でノンフィクションとしてコンテンツを供給しなければならないと思う
そうするとますます書けない
書き散らす自由、それを放置する自由、それを通りすがりの他人が見る自由が戻ってきてもいいと思う
作務衣なのか人民服なのかよくわからない服を買った
どこで買ったんだよそんな服と言われそうなデザインの服をなんとなく買ってみたかった
インド綿デニムリラックスセット 男女兼用L-XL・ダークネイビー | 男女兼用サイズ・ユニセックス・ジェンダーレス 通販 | 無印良品
人によってはおしゃれな着こなしに使えるみたいだけど、自分には無理だな……
この服、よく見ると、プロレタリア小説によく出てくるナッパ服に似ているような
雰囲気 - 03 July 2021
どれほどひどい状況であってもオリンピックが強行開催されることになって、あきらめの雰囲気がただよっている。どうやってオリンピックの被害を防ぐかよりも、どうやって被害を最小限にしようかという話が中心になりつつある。
小惑星が東京に落ちてくる日がわかっているのだが、誰もそれを止められずあきらめの気持ちで待っているような雰囲気。
あるいは、大きな災厄がやってくるらしいが、それが本当に来るのかどうか、実感としてまだ感じられず、ぼんやりとした不安のなかで日々を過ごす雰囲気。危険に対する感性が麻痺した状態にされているような感覚。
大きな災厄は、それが実際に起こってみなければ、どれほどひどいことなのか実感できないので、いまは誰も何も想像できず、この状態が永遠に続くのだろうと感じている。
ぼんやりとした不安がときどき兆すが、それはまだ起こっていないことで確かめようがないので、地平線の向こうへと再び押しやる。
空襲を受けて多くの人が亡くなった時代の人々もこんなふうにして生きていたのだろうかと思うことがある。
政治家は嘘と適当なことばかりで失政をごまかすことに終始してるのに、誰もそれを止めることができないというあきらめの雰囲気。
猫の雑種はよくて犬の雑種はだめなのか
東京では(とくに都心部では)犬の雑種をほとんど見かけない。どこかのペットショップで買ってきました、みたいな、犬種が一目でわかる小型犬が多い。
公園を歩いていると、携帯持つならとりあえずiPhoneみたいな感じで、みんな柴犬を連れて歩いているのでびびる。
東京都民はどこかしら、「えー、雑種犬連れて歩いてるの?」みたいな視線を持っているように感じる。
この、犬種へのブランド信仰みたいなのは何なんだろうか。たんに東京都の所得水準が高めなこと(なので血統書付きの犬をすぐに買える)だけでは説明がつかない気もする。
一方で、猫はどんな外見をしていても、猫であるというだけで、やたらと猫可愛がりされている。品種とか関係ない。猫は猫なわけだ。
犬とのこの待遇格差はなんなんだろうか。
衰退の話で活発になるコミュニティ
なんではてなの人たちは、はてなが衰退しているという話がこんなに好きなんだろうか。
衰退の話題で十分に盛り上がって、コミュニティが活発なことがかえって可視化されていると思うのだけど。
コメントを見ていると、みんなTwitterに行っちゃったんだよ、という意見が多い。その理由としては、
- Twitterのほうが情報収集しやすい(情報インフラとしての役割)
- 長い文章をネット上で書いたり読んだりすることが流行らなくなった
みたいなことらしい。
自分は長めの文章を読むのも書くのも好きだけれどなあ、時代遅れなのだろうか。
でも、長い文章を読むのが好きな人がいなかったら、ふだん増田の長文にあんなにブックマークがつかないと思う。
Twitterで短い言葉を読んだり書いたり、YouTubeを見たりすることがネットの楽しみ方の主流になっちゃったんだよ、とかいうとき、長い文章を読み書きしていた人がやめてTwitterとかYouTubeのほうに行っちゃったみたいに考えがち。
だけれど、そもそも、世の中の多くの人は長い文章を読む読解力がなくて、そういうマス層の人はあんまりネットで時間を過ごしていなかったのでは。そういう人が簡単にネットを見られるようになると、リテラシーがあんまり高くないので、TwitterとかInstagramに滞留しがちで、数が多いので結局主流派に見えてしまうということでは。
なので、もともと長い文章を読んだり書いたりするのが好きな人は、ネット上での娯楽の選択肢が増えても、そんなに簡単に長文テキストコンテンツを完全に放棄することはないと思っている。
身辺雑記みたいなブログを見かけることはあんまりなくなってしまったけど、たくさんブックマークがつく増田の文章みたいに、それなりにいろいろと考えさせる長文があれば、ネットにいる人たちは読んでいるのでは。
というふうに考える自分は、やはりはてなに滞留しすぎななんだろうか。
RSSの復活がブログ文化の復活につながるんじゃないかと考えたことはあった。
Twitterみたいに字数を気にせず、一言の投稿も長文も、どっちも好き勝手に書ける場所があって、そこで発信した情報がTwitterとごちゃまぜになってすべて一つのタイムラインに収まって、ブログから発信した情報の受信も拡散も、Twitterを経由してもしなくても簡単にできるようになったら、ブログに戻ってくる人が増えるんじゃないか、みたいな発想だ。
まだ自分の中で考えがまとまっていないのを感じるけれど、そういうふうに情報発信の仕方がまた変わっていったら、それはそれで面白いかもしれないなと思う。
雰囲気 - 28 June 2021
いつもぼんやりとした不安の中に生き続けている。そうすると、この先どれほどひどいことが起ころうとしているのか、しっかりと想像できなくなっている気がする。
ほかでもない。この夏にどれほどひどいことが日本で起ころうとしているか、直視しようとしたり、想像を巡らせたりする能力が、自分の中でひどく下がっているのではないか。
なにかとんでもないことが起ころうとしているのかもしれない。それにたいして、どういうふうに自分を守ったらいいか、今の時点で何かできることはないか、順序だてて考えようとしてもできなくなっているのかもしれない。そんなふうに思った。それが今日のことだ。
あとは答え合わせが待っているのだろう。起こるべきことが起こってしまったあとに、自分はなにか準備していたのか、そもそも、迫りくる危険について、なにか考えていたのだろうか。そう自問して、自分を責める瞬間がやってくるのかもしれない。
そうなったときに、今日のことを思い出すよすがはあるのだろうか。この、ぼんやりとした不安が心によぎった今日のことを。それにたいして、何かできることがあるのかと自問してみた日のことを。
麻痺している人間は、自分が麻痺していることに気づかない。気づいた時にはもう遅い。
直感に逆らって、最悪の事態、いまなすべきことについて、考えて、動くことができるだろうか。そう思っていることを記録に残す。