大学の研究とその「リターン」
これを読みかえると、「投資に見合うリターン」を生み出さない大学または部局は、社会的ニーズに応えていないので、学長のリーダーシップによりスピード感をもって改革または統廃合する、ということになりはしないだろうか。だとすると、これは現在行われつつある、国立大学での人文社会系部局の予算縮減、人員削減、組織統廃合を追認しているだけなので、とくに驚くべきことはない。
ところで国立大学への「投資に見合うリターン」とは何だろう。
投資が国立大学の予算という金銭的な投資だとすると、リターンもまた金銭的なリターンだと考えて差し支えないのだろうか。それとももっと広義の、金銭的価値に還元されない「国民の福祉の増大」とやらも含むのだろうか。
答えがどちらであれ、この「投資に見合うリターン」という言い回しは、国立大学を株式会社のように運営すべきだという考え方、より正確に言えば、国立大学に株主至上主義というイデオロギーを適用すべきだ、という内閣の意向を示す徴だと思う。
株主至上主義(shareholder primacy)とは、ようするに、会社は株主のものであり、株主の利害を第一に考慮して運営すべきだという説だ。
国立大学の最大の財源は政府からの交付金だ。この事実が、「国立大学という株式会社にもっとも多くの株式資本を注入し、最大議決権を保持しているのは政府だ」という見方に擬せられる。国立大学という法人の最大株主は政府なので、国立大学は政府の利害を第一に考慮した運営を行うべきだ、それは交付金の財源である税金を出した国民の利益を第一に考慮して行動することにもつながる。
この考え方に対する違和感を持つ人が、とくに大学の外の人たちの間では非常に少ないように思われる。自分が働いて払った税金が国立大学で使われていると考える人は、大学の自治というものをなにかけしからんものと考える向きさえあるように見える。
さきほど株主至上主義をイデオロギーといったのは、コーポレートガバナンスをめぐる議論をすこし調べると、株主至上主義にたいする批判的な視点などいくらでも見つかるからだ。
株主至上主義の最大の問題は、近視眼的な思考法にある。株主の利益を最大化することだけを目的として会社を運営すると、株価を上げるための短期的でわかりやすく見栄えが良い施策ばかり追求する方向に会社の資源が使われ、長期的に大きな成果を上げうるイノベーションをかえって阻害し、戦略やテクノロジーが陳腐化し、業績が傾き、結局は株主の利益を毀損する可能性がある。
産学共同の議論をすると、日本の大学から次のグーグルを出せという話をする人がすぐに出てくる。「総合科学技術・イノベーション会議」で、内閣の見解にお墨付きを与える「有識者」の方々が想定している「投資に見合うリターン」とは、大学で開発されたテクノロジーを応用した企業の株価が高騰し、株主にもたらす金銭的な「リターン」とその副次的な効果(例えば雇用の増大、GDP成長率の上昇)であるように見える。
問題は、そうした短期的な成果を最大化するために政府が権力(または暴力)を行使して、国立大学の組織を改編した場合、リターンをもたらしうる(と政府が想定する)テクノロジーの開発を行っている部局は、大学のなかでもごくごく一部だということだ。その一部に最大限のレバレッジをかける形でトップダウンの組織改編を行った場合、その組織形態が「その他大勢」の研究開発体制に適合している保証はない。全国の大学で長年にわたり行われていた多様な研究を阻害し、研究組織を破壊する可能性がある。流行を追いかけたテクノロジーの開発がぱっとしないものに終わったとき、他に何かないのかと大学を見渡すと、研究棟の跡地にぺんぺん草しか生えていないという事態がありうる。
アメリカの大学はすでに日本の「総合科学技術・イノベーション会議」が想定するような運営がなされていると主張する人は、アイビーリーグの大学院にどのような部局があり、どのような研究が行われているか、全部調べてものを言っているのだろうか。